歴史

岩村城跡(恵那市岩村町)  地図
県指定史跡。蛇の骨を霧ヶ井という井戸に投げ込むと、霧が深く立ちこめ城を覆ったという伝説から霧ヶ城とも言われる。日本3大山城(岩村城、岡山の備中松山城、奈良の大和高取城)の一つで、最高の標高721mの所にある。平成18年2月13日に(財)日本城郭協会選定の「日本百名城」に岐阜県では岐阜城とともに選ばれた。
築城は1195年源頼朝から遠山荘(今の恵那市、中津川市)を拝領した加藤次景廉の嫡男景朝が行い遠山に改姓した。戦国時代の元亀2年(1571)城主の遠山景任が病死すると信長が送った5男の御坊丸(勝長)の後見として未亡人おつやが女城主となった。1年後に岩村城は武田信玄の西上により落城した。本能寺の変までの80日間森蘭丸が城主の時もあった。江戸時代は松平3万石,岩村藩の所有。明治6年明治政府により建物は取り壊され売却された。
岩村城の規模 (元禄15年当時)
標高      721m(本丸・最高所)
城囲い     1,255m(但し一の門内)
山回り     3,700m
縄張り     本丸・二の丸・出丸・東曲輪・八幡曲輪・帯曲輪・藩主邸等
石垣場所   31ケ所(1,700m)
矢の倉(櫓)  11ケ所(三重1,二重9,一重1)
多門      大小8ケ所
門       大小17ケ所
塀       43ケ所
狭間      680ケ所(矢・鉄砲狭間)
城内屋舗  10ケ所(藩主邸は別)
岩村城
近くには平成元年に国土問題研究会から「日本一の農村風景」といわれた展望台からの岩村富田地区の眺めが見える。田園は総面積約150ha。
また岩村の町並みは平成10年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されまた(財)古都保存協会「美しい日本の歴史的風土 100選」に馬籠、妻籠と共に選定された。
大井宿
恵那は元々中山道の宿場町であった。美濃十六宿の内の大井宿で、中津川宿と大湫宿に挟まれ本陣・脇本陣・旅籠屋41軒と美濃十六宿の中でも最大のものであった。敵の侵入を防ぐために道が直角に曲がる枡型が六カ所にもありきわめて珍しい街道になっている。市内11.2キロメートルの道のりは徒歩で約3時間。名古屋側の槇ヶ根追分は上街道(中山道)と下街道(名古屋・伊勢方面)の分岐点になっていた。大井宿は、江戸から87里(約342km)、数えて46番目の宿場町です。 
 大井橋のたもとには、宿場のあらましを記した案内板が出ている。江戸時代後期の天保14年(1843)の大井宿の家数は110軒、人口は466人を数え、旅籠41軒、茶屋8軒があった。講宿や近江商人の定宿となっていた旅籠もあり、茶屋ではワラジ・蓑・砂糖餅・果物などを売っていたという。宿場の長さは、710メートル(6丁)ほどであった。

写真は大井本陣
西行伝説
西行法師が恵那でなくなったという伝説があり、西行にまつわる遺跡が多い。西行葬送の寺といわれる長国寺、西行が住んだといわれる松林庵、竹林庵、梅露庵、西行の墓と伝えられる伝西行塚西行硯水などである。
五百羅漢(中津川市茄子川)
寛政6年(1794年)上総国森岩寺の前住職越山和尚が知人の茄子川の勝半蔵を訪ねた折り翌日裏の景勝地寺居山で、枯木の観音に遭い、亡師宗龍の石仏五百羅造立の遺言を思い出し、5百羅漢建立を思いたち5年がかりで建立し尾張の寺社役所の許可を得て、開山した。巨大な岩の上に129体もの石像が鎮座してある。明治初期の廃仏毀釈の影響で境内は荒れ放題となったが、明治41年坂本五百羅漢保存会が結成され、昭和34年に修復された。
正家廃寺(しょうげはいじ)
八世紀中期(奈良時代)に建てられ九世紀末頃に消失したとされた正家廃寺は、これまでの調査で、伽藍が東西107m南北の西辺が70m東辺が66mで、西側部分の東西に金堂と塔、北側に講堂を配した加藍地で法隆寺式の配置で金堂が奈良法隆寺の国宝「玉虫厨子」と同じ形式の建築であったことが明らかになっている。
下野の庚申堂(中津川市下野)
日本三大庚申の一つといわれる。文覚上人の創建と伝えられる。本尊は青面金剛王童子(行基作)。本堂は1778(安永7)年に、禅堂は1890(明治23)年に建立され、正面には山岡鉄舟筆の「金剛王」の大額が掲げられています。
一説には江戸時代に「日本三庚申」と言われた大阪の四天王寺庚申堂、京都の八坂庚申堂、江戸の入谷庚申堂(今はない。代わりに浅草寺の庚申堂が数えられる)が日本三庚申といわれている。
毎年庚申の日に例祭が行われ、特に第2回目の庚申の大祭・4月第2日曜日の春祭りには多くの参拝客でにぎわいます。御開帳は、6年目ごとに半開帳、60年目ごとに大開帳が行われます。
武並神社
本殿は1564(永禄7)年に完成し、室町時代の特色が残る建築で国の重要文化財に指定された。
苗木城跡(中津川市苗木町) 地図
苗木藩遠山氏の通称城山(標高433m)と呼ばれる高森山に築城され、山全体は巨岩に覆われ、南側の麓に流れる木曽川が天然の堀 となり、敵の侵入から守るには絶好の環境でした。また、天守から中山道と飛騨路が一 望できるという交通の要衝にあり、そうした地の利を活かして、苗木に城を移したとも 推測されています。城郭は、自然の岩盤や石垣を基礎とし、その上にかけ屋造りによって倉庫や小屋、武 器蔵などの建物を建て、それらを区切るように数多くの門が構えられました。三の丸、 二の丸、本丸が段階的に構築され、平地の城に見られるような、高階層的な建造形態をなし ていました。関ヶ原戦以来12代270年間居城としていた苗木城の城跡で国指定史跡。別名霞が城、これは敵が攻めると頻りに風雨があり、煙霞が立ちこめて城が見えなくなったことからいわれたという。木曽川畔の標高432メートルの山上に築かれ、守護神の木曽川の龍が白を嫌ったため壁が赤く塗られ、赤壁城とも呼ばれた(財政事情で白壁にできなかったという説もある)。築城は天文元年(1582)直廉によるとされており、明治3年(1870)に取り払われ、現在は石垣のみとなっている。城跡は「小藩の城ではあるが、よく戦国時代 の面影をとどめている近世城郭として貴重である」として、昭和56年に国の史跡に指定。城山の麓には、「苗木遠山史料館」「青邨記念館」があります。
馬籠宿
江戸から数えて44番目の宿。島崎藤村の生まれ育ったところ。昭和51年国の「町並み保存地区」に選定された。800mの街道沿いには風情のある民家が並ぶ。
神坂峠
標高1595m。昔は科野(しなの)坂、御坂、三坂として記紀、万葉を始め数々の文献にみられ、4世紀のはじめに大和から東国に至る東山道の要路として開かれていた。西の坂本と東の阿智駅の距離は約41kmもあり険しい山道と途中に人家がないことから交通の難所であった。その一端は、日本武尊の東征の帰路、尊を苦しめようした山の神が白鹿に変じ、それを尊が蒜で撃ったという『日本書紀』景行天皇四十年条の説話や「ちはやぶる?の御坂に幣奉り齋ふ命は母父が為」という『万葉集』巻二十(4402)の歌にもうかがえる。江戸時代に木曽路が開かれたことによって、使われなくなった。 旅人達は峠に荒ぶる神がいて、旅人を苦しめると信じていたので、越えるとき「峠神」に幣をささげて安全を祈る風習がありました。 神坂峠からは幣に用いられた千数百点の石製模造品のほか土器・陶器などが発掘され、阿智村公民館に保存されていて,峠の遺跡としては唯一の国の史跡に指定されています。 弘仁6年(815)関東に教えを広めるためにこの峠を通った最澄は、その険しさと宿がないことを知り、峠をはさんで中津 川側に「広済院(こうさいいん)」、阿知側に「広拯院(こうじょういん)」という宿を設けました。そして、峠越えに苦しんだ多 くの旅人が、その恩恵に預かったとされています。現在、中津川市霧ケ原と阿智村園原に、それぞれの宿の跡と伝えら れるところがあります。
明治座
中津川市加子母の農村歌舞伎舞台。明治27年(1894)に建てられた。県指定重要有形民俗文化財。
常磐座
中津川市福岡町の芝居小屋。明治24年(1891)に開かれる。