野沢温泉

途中に立ち寄った和田村です
 戦国時代武田信玄は信濃を攻め、そのとき城主大井信定が討ち死にしました。その菩提を弔うため信定寺は天文22年に建立されました。
 中山道和田宿長井本陣は文久元年(1861)3月の大火事で焼失。同年11月に皇女和宮が来られるということで直ぐに再建されました。、「居室棟」は村役場、農協事務所として昭和59年4月まで使用されていたが、役場の新庁舎移転に伴い解体される予定であったが、調査の結果重要な遺構として昭和61年より解体修理が行われほぼ往時の姿に復元された。
羽田野
名主羽田家の役宅で平入出桁造りの旅籠
大黒屋
旅籠
上の平から野沢温泉を見たところです。
道祖神
真湯
丁度野沢菜の洗いがはじまって入れませんでした。
滝の湯
麻釜の源泉の少し上にあり、木造のこじんまりとした建物。
源泉は78度と高温です。泉質は含石膏-食塩・硫黄泉。
大湯
野沢温泉のシンボルともいえる大湯は、温泉街の中心にあります。
泉質は単純硫黄泉。
十王堂の湯
斑山文庫の下、閻魔堂の前に建つ二階建ての浴場。麻釜と湯ノ宮から引湯している。2階が男湯。
泉質は含石膏・食塩・硫黄泉。
秋葉の湯
唱歌が奏でられるのどかな公園、おぼろ月夜の館-斑山文庫の上にあります。
泉質は含芒硝-石膏・硫黄泉。
河原湯
大湯から少し下がったところにあり、昔は渓流に沿った凹地河原にあったところからなずけられました。泉質は、含石膏-食塩・硫黄泉
高野辰之記念館 長野県中野市永江1809
「故郷」「紅葉」「朧月夜」など、日本の心のふるさとを歌う文部省唱歌を作詞。明治9年、豊田村永江(現在の中野市)の農家に生まれた。この記念館は、同村が誇る辰之の生涯と業績を顕彰しようと、永田小学校の旧校舎跡地、かつて辰之が通った永江学校の地に、平成3年4月オープンした。
秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様

渓の流に散り浮く紅葉
波にゆられて離れて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦
この詞の舞台になったのは、碓氷峠の信越本線熊ノ平駅近辺と言われています。
一、兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
二、如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思ひいづる故郷
三、こゝろざしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷

作詞の高野辰之の幼少時代を過ごした故郷の風景・望郷の思いを描写したと伝えられる。兎を追った山は、大平山・小鮒を釣った川は斑川であるという。
『朧月夜』の2番に出てくる「かねの音」は、高野の生家からほど近くにある「真宝寺」の鐘の音といわれています。
東京都渋谷区代々木。ここにはかつて「河骨川(こうほねかわ)」という川が流れていて、春になると岸辺にすみれやれんげが咲きました。代々木山谷(現在の代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之*は、その風景を愛し、しばしばこの辺りを散策したといいます。『春の小川』に描かれている情景は、河骨川のものだったのです。
高野辰之の故郷である長野県下水内郡豊田村。明治時代、この辺りでは照明用の菜種油を採るために、菜の花が盛んに栽培されていました。