大井宿(四十六次)
西の大湫宿までの十三峠の難所を控え、また伊勢、尾張に向かう下街道が宿の西で分岐しておリ、美濃十六宿で最も繁栄したという宿場。
主な見所
根津神社 | 鎌倉幕席の命令で、羽風にあたると病気や死亡してしまうというキジをおい、力尽きた根津甚平を祭ったという神社。 | |
関戸宝篋印塔 | ||
蓮花寺古墳群 | ||
関戸一里塚跡 | 江戸日本橋より八十七里目の一里塚で、ツカの上には松と榎が立っていたが大正の頃に取り払われ消失した。 | |
馬頭観音 | ||
上宿石仏群 | 宿場外れに数多くの石仏を建て病気の平癒とともに悪病や悪人の侵入を防ぎ宿内の無事息災をを祈った。特に痰切地蔵が有名。 | |
菅原神社 | ||
長国寺 | 本尊は釈迦牟尼佛。『長國寺縁起』によれば、元は長興寺という寺名。寺は大宝2年(702)に始まり、妊観音が祀られていたと伝えられ、平安時代の元慶5年(881年)に天台宗の円珍の弟子覚源が観音堂を建立し直して、船岡山 長興教寺とした。室町時代の永正8年(1511年)
大井町周辺の神社仏閣は、美濃国の豪族土岐氏と信濃国の豪族小笠原氏の争いの際に兵火により焼失し伽藍の全てを失った。 安土桃山時代の慶長元年(1596年)に瑞浪市の開元院から體巌雲恕を招いて開山し曹洞宗の寺院として復興。 江戸時代の延宝年間(1673〜1680年)に現在の地に移った。 |
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南無阿弥陀仏の碑 (名号塔) |
この石碑は江戸時代に旅の途中で大井宿で亡くなった母親の菩提を弔って家族が建てた碑です。大井宿の人達のおもてなしに感謝して武蔵の国からわざわざ石工を派遣して建造したものです。 | |
高札場 | ||
和宮泉 | 大井宿には古くから良水の湧く井戸がたくさんありました。“大井”という地名もここから由来します。この井戸は本陣林家が常用したもので和宮様が御降嫁の折に水守役の山城守が「良水これに勝るものなし」と言って、大井でご昼食だけでなく次のお泊まりの中津川宿まで運ばたという話が残っていることからこの名がつきました。 | |
内城稲荷 | ||
大井本陣跡 | 書院のついた豪壮な本陣でしたが昭和22年に焼失してしまいました。現在は安土桃山様式を伝える薬医門が残されています。 | |
中山道ひし屋資料館 | ||
宿役人の家(戸長役場跡) | ||
明治天皇行在所 | ||
いち川 | ||
長屋門 | ||
古屋家 | ||
中野村庄屋の家 | 屋号は本酒屋。 |
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中野観音堂 | 2間半×2間の大きさで入母屋造、回り縁のある建物で、江戸時代には建てられていた。ご本尊は阿弥陀如来立像でその他に弘法大師像、三十三観音像などが祀られており近くに寛政八年(1796)建立の秋葉燈篭があります。 | |
上町観音堂 | ||
神明神社 | ||
西行硯水 | 平安時代の歌人、西行がここの泉で墨をすったといい公園として整備されている。 | |
西行塚 | 石畳が整備された西行坂に、恵那の街を見下ろすようにある。西行はここ大井で没したと伝えられている。 | |
槙ヶ根一里塚 | ||
十三峠
大湫宿から大井宿まで十三峠と言われるほど多くの坂が統き、難所のひとつに数えられていた。
下街道の石碑
中山遺と伊勢、尾張に向かう下街道の分岐点にある。ここにはお伊勢さんの蓬拝所や、茶屋が立ち並ぴ賑わいを見せていた。
首なし地蔵
紅坂一里塚
大湫宿へ